名古屋市、水の歴史めぐり
- engineerworks1227

- 2024年8月23日
- 読了時間: 3分

6月28日、この日はあいにくの雨でしたが、名古屋市の”水の歴史”を勉強することにしました。
前回と比べトラックのカスタムも随分と進みました。

最初に伺ったのが”水の歴史資料館”。ここでは、名古屋市の上下水道がどのような成り立ちがあったのか?江戸時代に遡り勉強することが出来ます。

江戸時代前までは各家庭から出る生活排水は地面にしみ込ませて処理していました。しかし、城下町が出来るようになると”悪水路”と呼ばれる水路が作られるようになりました。
因みに、糞尿は肥料としていたため悪水路に流すのではなく保管しておき野菜や米と交換していたようです。

名古屋城下を地図にして管理していたようです。とはいえ、水路なので生活排水が井戸水に浸み込みます。
明治時代になると人口の密集が、衛生的な問題を引き起こすことになります。腸チフスや赤痢またコレラが流行しました。これらのことにより、汚水の適正処理と清潔な飲料水の確保の必要性が認識されるようになりました。

明治時代に近代の水道様式が固まります。
1,浄化し殺菌をする。
2,鋳鉄管を用い外部から汚染されないようにする。
3,ポンプを使って広範囲に供給する。
名古屋市の水源は犬山市を流れる木曽川に取水口をもうけることになりました。現在では更に3つのダムともう1つの取水口が追加されています。

下水管も創設期には陶製ではあったものの、汚水が外部に漏出しにくいよう工夫されていたようです。

そのあと、別の施設で下水道科学館にも行ってみました。下水には汚水と雨水の区分けを教えてもらい、下水がどのように処理されているかについて知ることが出来ました。

上下水道を整備することの最大の目的は衛生管理なのだと思います。そして、それは人の健康、生命に直結するゆえなのでしょう。明治時代から人々の健康のために行政は海外から専門技師を招き、上下水道工事に莫大な資金と時間をかけ工事を進めました。
(写真は中川運河松重閘門)

仮説として、もし明治時代に腸チフスや赤痢またコレラなどの感染症に効く薬があり誰でも手に入る状況だったとするならば、上下水道の整備はどこまで展開したのかな?と思いました。
(写真は中川運河松重閘門)

新型コロナで世界中で多くの人が苦しみ亡くなった人もいましたが、何かインフラが整備された事例というのは聞いたことがありません。それどころか新型コロナが5類に移行して以来、多くの人々は自分がコロナに感染するリスクを交換にマスクの無い快適性をいとも簡単に選ぶようになりました。それは、新型コロナの重症化が軽減されたことや、もはや治療可能になったことだからでしょう。
(写真は中川運河松重閘門)

いつの時代も人の健康や生命を大切にしてきた事には変わりありませんが、その時代に人類が持ち合わせた技術が何の分野でどのくらいあるのかで問題の克服方法が大きく変わるのだと知り、現代へも続く世の中の複雑性を知ることが出来ました。
(写真は中川運河松重閘門)
そんな事を考えながらそのあと、中川運河を散歩したのでした。



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