黒部ダム(立山黒部アルペンルート)
- engineerworks1227

- 2023年8月22日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年8月24日
8月16日
今日は工場見学ではなく歴史見学になりました。
あいにくの雨でした。
扇沢駅に到着です。
扇沢駅から電気バスに乗って黒部ダムへ。
何も勉強せずに行ったので最初は破砕帯という説明に”???”でしたが、むしろ”黒部ダム=破砕帯”であることが後からわかることになります。
ダム到着。
この放水は観光放水で発電中ではありません。
環境保全と観光客向けということみたいです。
真上からの撮影は携帯電話を落としそうで。。
ダムカレーです。
カツカレー1600円ですが、絶景を見ながら食すことが出来ましたし、エメラルド色の黒部湖をイメージしてグリーンカレーにしていたのもお洒落でした。
水が噴き出す側の裏側。黒部湖側の風景です。
特設会場では当時のレプリカを始め、写真や資料が展示されていました。
黒部ダムを建設するにあたり、建設資材を運搬する道路が必要で大町トンネルを掘ったという経緯です。
また、映像も用意されていました。
いかに破砕帯の工事が危険で難しく、スピードある決断力が企業側トップ陣営に求められたか?をインタビューを通して
伺い知ることが出来ました。
その内容は、関西電力を始めゼネコン数社が難工事に対処するといった文脈なので、インタビュイー(受け側)も企業のかつてのお偉いさんばかりが当時の状況を雄弁に語るというものでした。しかし、企業力と功績は存分に表現されていた一方で、この工区で労働力として働いていた人はどのような日常だったのだろう?と。あまりそこにスポットが当てられていない気がしました。
そこで家に帰ってから、映画”黒部の太陽を”見ることにしました。映画のオープニングクレジット(本編が始まる前に出演者、協賛企業名が流れる一覧)には関西電力を始めゼネコン数社の名前がずらりと出てきました。本編自体も企業側目線の場面がほとんどで知りたかった工員の日常シーンは出てきませんでした。
考えてもみると、黒部ダム工事全体で工期7年間24時間3交代制で延べ1000万人の工員、映画での主人公のゼネコン熊谷組工区だけでも毎日700人ほどの工員が働いていたようです。その環境でどのような日常だったのか、全く詳細なものがないのはむしろ不自然な感じすらしました。
工員の公募はどのようにされていたのでしょうか?昭和31年着工ですのでSNSどころか紙媒体もそこそこな時代にどうやって働き盛りの人を集めきったのか?反社会的で大きな力を持つ団体の協力があったのかな?と思ってしまいました。更には集団生活の中で喧嘩やいじめはどうだったのでしょう?
破砕帯で湧き出てくる地下水は摂氏4℃だったらしく、軟弱な岩盤のため手作業で掘り進めたそうです。真冬も工事していたので低体温症や病死はなかったのでしょうか?
殉職者が公式には171人と発表されてはいるものの間接的な要素も含めると、根拠はありませんがもっと多かったのではないかと思いました。
このような憶測は当時の人達の中できっとあったとは思いますが、この”黒部の太陽”という映画で企業の功績を全面に出し”戦後復興の象徴”という言葉のみを定義付けたかった人達や団体がいたのではないのでしょうか?強者が歴史を作り変える的な。。。
見られたくないもの、知られてたくないことは当然あったにしても圧倒的な労力と時間かけて作られた歴史的構造物なのでそうした部分も含めて公開すると史実に深みが出て、後代の人達の学びになるのではないかと思いました。

















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