あいち航空ミュージアム
- engineerworks1227
- 2024年3月14日
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2月19日
今日は、納品帰りに寄らせて頂きました。
というのも、”名古屋コンシェルジュ”という名古屋でのイベントを紹介しているHPを発見しました。そこで零式艦上戦闘機を設計した堀越二郎誕生120周年イベントが開催されていることを知り、早速行ってみることにしました。

最初の展示物はレオナルドダヴィンチのヘリコプターです。
歴史を遡ると最初に人間が空を飛んだのは1783年(江戸時代中期)フランスで熱気球によるものだそうです。
しかし、飛行機としてはライト兄弟が1900年代初期、日本では日野熊藏が1910年(明治43年)に有人飛行を実現させたとのことです。
とはいえ、現代の人が想像するようなものではなく当時はエンジン出力不足のため滑走するも、ほんの少し浮く程度のものだったようです。

三菱重工が開発していたものの2023年に打ち切りとなってしまった、国産初の民間ジェット旅客機MRJの機内部。
実際に座れますし、リクライニングも可能でした。

模型を見ると、改めてカッコいい!!
実物を見たかったな~と。
MRJミュージアムも閉館してしまい、段々と痕跡すらも無くなってしまうのは残念です。

1937年(昭和12年)に堀越二郎が海軍から零式艦上戦闘機の設計命令を受けました。ここにあるのは佐賀県にある馬場ボディさんが精巧に再現させたレプリカです。エンジンでプロペラも回るとのことで映画”永遠の0”の撮影で使用されました。

零式艦上戦闘機は一般的に、日本の英知が集積された最高技術の傑作のようなイメージがあると思います。もちろん大きく間違ってはいませんが、当時他国の戦闘機と比べ最強だったのか?と言われると必ずしもそうではありませんでした。なぜなら戦況は刻々と変わり、軍から求められる飛行性能に対する要求は当時の日本の技術では成しえないレベルでした。

主に、日本はエンジンの開発が遅れていたため出力が不足していました。そのため、戦闘を優位にするには機体に軽快性を持たせることが必要でした。機体を究極に軽くするため強度を落とし、防弾などの安全レベルも引き下げる事になりました。

他国はその頃、高出力エンジンの開発に成功し、防弾レベルを上げ、より破壊力のある火器を装備出来るようになっていきました。
一方日本は既に補給路も断たれ、工業力などマンパワーに限界が見えていました。
やがて、1945年日本は戦争に敗れ日本が航空機を開発すること自体、アメリカからの制限を受けることになりました。

敗戦から7年後、サンフランシスコ平和条約が結ばれ日本は晴れて独立国となりました。同時に航空機の開発も始められました。
1945年前後、世界の技術はプロペラエンジンからジェットエンジンへの移行が凄まじい勢いとなっていました。それで、日本の航空機開発が出来なかった7年間は大きなハンディでした。とはいえ、この7年があったからこそ日本は自動車産業、鉄道産業に集中出来ました。それで現在でも、世界の技術の中心となっているという一面もあるそうです。

とはいえ、既に世界から遅れをとっていた日本も朝鮮戦争を皮切りにアメリカ軍の飛行機を修繕していくことになっていきます。朝鮮戦争は敗戦しボロボロになった日本の技術や経済を一気に復活さ、それは高度成長期まで勢いは続くことになったそうです。
その中、日本でもオールジャパンで航空機を作ろうという声が上がるようになり、YS-11が誕生することになりました。

ここで、設計集団に加わったのが零式艦上戦闘機を設計した堀越二郎でした。YS-11は複数社が連携して製造しており堀越二郎以外でも戦時中に名機と言われる機体を設計していた人達も含まれていたので、かなり優秀なプロペラ機であったと思います。しかし、世界はジェットエンジンの時代です。日本は旅客機の製造をした実績が無いこともあり買いたたかれてしまうことや商習慣の違い、為替の問題などで世界へ販売流通させる"ビジネス"の分野で成功することが出来ませんでした。

結果、赤字体質から脱却出来ずに1971年製造中止となってしまいました。
今回の見学で、戦後の日本において朝鮮戦争が大きな経済効果があったことや敗戦後7年間航空機を製造出来なかったことが、現在の日本経済に大きな影響を与えているのだなと学べました。また、堀越二郎が零式艦上戦闘機からYS-11という一連の設計を手掛けていたことを知りました。戦争末期から戦後復興の時期に、自分の才能を日本に注いでくれた方だと思うと感謝の気持ちになりました。堀越二郎誕生120周年イベント、非常に勉強になりました。ありがとうございました。
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